私は長野県でアニメーションを作る仕事をしている。 在宅ワークがほとんどだが、たまに遠方に行く時など、機会があれば平和関連施設に足を運ぶようにしている。
今年の6月、長野県の下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和記念館に初めて訪れた。
「満蒙開拓」のことは詳しく知らなかったが、戦争中に日本から中国の満州に渡った人々が約27万人もいた こと、そのうち長野県からの開拓民は3万3000人で、全国一の多さだったことを知り、どうしても行ってみ たかった施設だ。
●満蒙開拓とは
1932年に中国東北部に建国された日本の傀儡国家(国家の運営が別の国家などによって事実上支配されてい る国家)である「満州国」 に日本から送り込まれた農業移民団のこと。
理由と背景には、当時の国内の農村の深刻な経済不況(中でも養蚕業の不況)や、国内の狭い耕地に対して の人口の過密問題があった。また、満州を奪い返そうとしたソ連との国境防衛の強化も一つの理由だった。
そこで日本は国策としての「満蒙開拓」を県と連携して推し進め、「満州へ行けば20町歩(東京ドーム4個 分)の地主になれる」という宣伝のもと、多くの農業移民を集め、満州国に送った。
長野県ではもともと養蚕業が盛んであったが、その後の不況で農家の生活は苦しかった。 いくら生活が苦しくても、突然よく知らない国で暮らし、その土地を開拓するなど、危険かつ不安だろう。 それでも、長野県を初めとする各県から多くの人々が満州国に渡った。それほど多くの人々が生活に困って いた。
しかし、満蒙開拓の現実は、現地の中国の人々の家や土地を安く買い、現地農民を追い出したり、環境が厳しく広大な土地のため、現地農民を小作人や苦力(クーリー)として安い賃金で働かせていた。
そして、終戦直前の1945年8月9日、ソ連軍が満州国へ侵攻する。 舞台は戦場と化し、それまで日本人に苦しめられた現地の人々の反感と憎悪も爆発し、日本人の約8万人が 犠牲となった。 満州国は、1932年から終戦の1945年までのたった13年間だけ存在し、悲しい歴史を残した幻の国となっ た。
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阿智村の長閑な自然の中にポツンと現れた満蒙開拓平和記念館は、まだ新しい、木の香りに包まれた建物だった。
展示は、日本と満蒙開拓の歴史年表から始まり、満蒙開拓団や青少年義勇軍(10代半ばの青少年の開拓民) 募集のポスター、開拓地での暮らしや風景、そして日本敗戦後にソ連の侵攻や現地の人々の暴動を受けなが ら居場所を彷徨った人々の記録など、パネルや映像、手紙、写真によって知ることができた。
その中でも、開拓民として満州に渡った人たちへのインタビュー映像には特に心を打たれた。 1人10分程度のインタビューの中で語られる話は、どれをとっても想像を絶する内容であった。 後々戦争の渦に飲み込まれることを知らずに、親元を離れ、青年義勇団として満州国に送り込まれた10代半 ばの青年達は、農家の2~3男が中心だった。行きたくなかったが、教師や親に勧められて満州に渡り、その 後の混乱で戦争孤児になった男性のインタビューがあった。
教師達も必死だった。青少年義勇軍の人数は、地域ごとに割り当てられていたため、その割り当てに従わな ければいけなかった。当時教師だった男性は、教え子を満州国に送り出したことを振り返り、「あの時、彼は行きたがっていなかった。けれど自分や他の教師達が行けと言ったから行く事になり、現地で亡くなっ た。彼にも彼の家族にも取り返しのつかないことをしてしまった。」と涙を浮かべながら話していた。
戦後、身の安全のために中国人と結婚し残留夫人となり、現地で子供を育てた女性は、何度か日本に一時帰 国した際に「やっぱり日本に帰りたい」と日本の家族に言っても、まだ日本も混乱していた時代で、迎え入 れてもらえなかった。そのご家族のインタビューもあった。
他にも、日本への引き揚げの際にやむ無く現地の中国人に赤ん坊を渡した女性や、子供の頃に厳しい収容所 生活で実母を亡くして悲惨な死体処理を見た女性など、語り手の方々の記憶の中に、それぞれの深い悲しみ や悔しさが刻まれていて、涙なしには聴くことが出来なかった。
語り手の方々の多くは80~90代。その映像も数年前のものだったと思うので、体験者が肉声で語れる機会と いうのは、今、もっと減っているだろう。 だからこそ、こういった映像や音声を残すことや、観て、聴くことは貴重だ。
語り手のプロフィールとインタビュー内容の抜粋を文章に起こした展示
絵 佐藤美代
記念館の一部では、修学旅行や課外学習で訪れた小中学生の感想をまとめたパネルが展示してある。 どれも、戦争が生む悲しみや、満蒙開拓について初めて知った、知れて良かったという感想とともに、ここ で得た知識をしっかり胸に刻みたいという思いが伝わる内容だった。
「日本人は沢山の人々を被害を受けただけでなく、もともと住んでいた現地の人々を苦しめた加害の側でも あった」ことを、印象に残ったと書いている学生もいた。 記念館訪問を通して、被害と加害の両方の立場から歴史を知ることの大切さを、私も痛感した。
現在、世界で起こっている国と国の間の軍事衝突も、両国で多くの犠牲者を出し、いつ終わるのかわからない状況の中で、国を追われた人々の逃避行が続いている。
人間はどうして深く悲しい歴史を残す戦争を繰り返してしまうのか。人間がいる限り、戦争は起きてしまう のか。自国のメリットばかり考えず、過去の歴史を知り、一人ひとりが目を背けずに被害と加害の側から考 えることが、平和への一歩に繋がることだと信じたい。
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