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執筆者の写真阿部 健

雑踏のなかで

更新日:7月8日

自分自身の生活においては、良いことも悪いことも、できるだけ多くのことを経験しながら、歳を重ねられると良いなと思っています。しかし、戦争みたいな争いごとや、生死に関わることを頻繁に経験したいとか、そういうことは勿論別です。できれば経験したくありません。


この日は、新宿駅南口改札前。普段から人通りの激しいこの歩道に、「STOP GENOCIDE」の声が集まっていました。通行人の妨げにならないよう、通れるスペースを確保しながらのスタンディングデモなのですが、やはりすぐに通行人の大渋滞がおき、この道を通る人は、のろのろとゆっくり、時間をかけて通過しなければなりませんでした。ぼくは壁側の端っこに立ってデモに参加していました。デモで切実な声を挙げる人たちと、目の前を通り過ぎていく人たちのコントラストは強く、小学生くらいの子を連れて歩く母親は、「STOP GENOCIDE」の大きな声に、耳を押さえてしまっているその子に、「こんなところでやらないで欲しいわね」と声をかけているのが聞こえてきました。また、あるひとりの男性は、猛牛のような勢いで、のろのろと進む行列を弾き飛ばしながら、壁と同化するくらいぴったりと端に寄って立っている僕の体にも、わざわざぶつかってきて、無言で通り過ぎて行きました。そこで人を大袈裟に跳ね除けながら通り過ぎることによって、このデモがいかに通行の邪魔をしているかということを、周囲に伝えようとしている印象でした。何か自分とは別のところで発生したことを理由に、それを言い訳に使い、自身の行動に正当性を持たせようとしている印象です。


もし、パレスチナがおかれている状況と同じように、「日本人って、この世界から完全に消滅しなければいけない存在なんだよね」ということをどこかの国が言い始め、そんな理由で家族や友人たちが毎日殺され、そしてそのことに賛同している国や人々も、実は世界に大勢いるなんてことを知ったとき、ぼくたちはどんな声を挙げるでしょうか。21世紀、耳ヲ傾ケルベキです。












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