7月某日。私たちは会いたい人に会いに行くために広島を訪れました。
梅雨空を見上げながら家を出たのに、目的地の広島へ降りたら元気一杯の夏の日差しを感じました。
約束の時間まであと2時間あったので広島平和記念資料館へ。静かに心震わせながら、あっという間に時間が過ぎてしまい、急いでタクシーにのり、この旅の最大の目的地であるアント・ヒロシマへ。
このアント・ヒロシマの活動を立ち上げ、1989年から現在に到るまでご尽力されている代表の渡部朋子さんにインタビューが叶いました。
(はじめに少しだけ)
ANT-Hiroshima(アント・ヒロシマ)とは、、、、
広島から平和を伝えつづけるとともに、国外支援などにも力を注いでいる特定非営利活動法人。広島市民や子どもたち、海外の研修生と共に、国際理解や平和教育を実践し独自の平和構築活動をおこなっている団体。一人一人の力はANT(アリ)のように小さくとも、信頼の絆をベースに、世界各国の人々やNGOなどと協働することで、大きな平和を実現できると信じ、ヒロシマの経験と思いを生かして、日々活動に取り組んでいらっしゃいます。
詳しくはぜひHPをご覧ください。 https://www.ant-hiroshima.org/
私たちはこの日までメールのやりとりだけで初対面でしたので、少々緊張していました。ドアを開けると、「ようきたね」と素敵な明るい優しい声の広島弁で、一気に不安なんてなくなり、快くおおらかな雰囲気の渡部さんとご挨拶するだけで、もう本当に来てよかった!この方に会えてよかった〜!!と、はじめの数分間でもう気持ちが満たされていました。お茶やお菓子をいただきながら、私たちからの質問に一つ一つ丁寧にお答えくださりました。どうぞお読みいただければ嬉しいです。
<七夏より質問>
渡部さんが大学生の頃、米軍の爆撃調査団の記録フィルムを借りて上映会を行ったころから、渡部さんのお母様が少しずつ話してくれるようになったと記事で読みましたが、その記録上映会を行う前までは、特に戦争体験の話を聞く事はなかったのですか?
渡部
戦争を体験された方々は、語ろうと思っても語れなかったのです。
話し始めたら、匂いまで思い出すし、夢も見るし、、、そういう状態で。。。
自分の親からも話は聞いたことなかったですし。
母は広島の日赤の看護学科の学生で15歳。 その時の同僚の人たちは毎年8月6日前にはうちに来て、みんなで亡くなった同僚の方たちのご供養をします。
日赤の慰霊碑にお参りしたり、お寺へ行ってご供養したりするの。なぜかというと、助けられずに死んでしまった人たちがたくさんいるから。
目の前で、瓦礫の下に埋もれた人たちに火の手が迫り、焼け死んでいったりとか、その後もね、病気で亡くなったりとか、そういう人たちの慰霊をする。
そういうことで、ずっとおばちゃんたちが集まってきよったんじゃけど、当時は、看護婦いうのは女性だけじゃね。今は男性もおるから看護師じゃね。
みんな、従軍看護婦になりたかった。戦地に行って、 お国のために戦地に行って傷ついた兵隊さんを助けるって。ただね、ナイチンゲールについては勉強しとった。
ナイチンゲールは、敵味方もなく傷ついた人を助ける、母親から「ナイチンゲール精神はあったよ」とは聞いたんだけどね。
うちの父はとうとう自分の体験を語らずに亡くなった。私は何回も聞いたんだけどね、その時の返事は「もう仕方がないんだ。だから前向いて生きるしかない」と。
そういう風に、私が20歳の時には、米軍爆撃調査団の記録フィルムを借りて上映する前までは、 聞いても語ってくれる人がいないような、まだそんな時代だった。
そして、私が生まれたのは戦争が終わって8年だったけど、広島の街にはスラムがあってみんな貧しくて。
長崎でもあったと思うんですけど、失対事業があったの。失業対策事業っていうんだけど、夫を亡くしたお母さんたちが、広島の道路の復興作業とかをしていたの。割烹着みたいなの着て、手ぬぐいを姉さんかぶりして、畚(もっこ)っていうのがあってね、木をかごに通して運ぶの。そこへ土や、砂利をを入れて、2人1組でエンヤコラって担いで。肉体労働よね。
基(もと)町っていうところがあるんじゃけど、私の家の川の対岸で。
昔は国有地だったからね、引き上げの人とか、原爆で家をなくした人たちが家を建てて住んどった。そういうような時代だった。
基町の西端、太田川土手沿に密集するバラック住宅
1962年(昭和37年)7月 所蔵/中国新聞社 広島平和記念資料館より引用https://hpmmuseum.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh1207/exh120207.html
それから、戦争から帰ってきた人もいると思うでしょ。 私のおじさんもね、徴兵されて中国に行ったのだけどね、人が変わったようになって帰ってきたの。人としてやってはいけないことをやってるから。しかも敗戦になって。
だから、自分の戦争の体験を語れなかったおじちゃん。最後まで語らなかった。
私のおじいちゃんは、すごく真面目な農夫でね、朝に晩に「ナンマンダ〜ナンマンダ〜」って言って手を合わせる人だったんですけどね、うちの母が何年か前に言ったんだけど、そのおじいちゃんが、おじさんのことを「戦死した方がよかったな」っていうくらいに、おじさんの人格が変わって帰ってきた。
おそらくよくあるレイプであるとか、 わらじのように殺せとか、そういうことで、戦争が人を変えてしまう。狂気に陥れてしまうから。
それでようやく引き上げて帰ってきた時には、もうその狂気だった自分のことは語れないですよね。私のおばちゃんもね、離婚したんよ。夫が戦争から帰ってきちゃったけど、 家の中で暴力を振るうようになる。そういう人、いっぱいいたと思うよ。
ということで、周りに戦争体験を持った人、原爆に遭った人が私の周りにはいたんだけど、 誰も話せなかった。それで「聞くことはなかったのですか」という質問だけど。聞くことはなかったんだけど、私は知りたかった。まず自分の父や母や自分の家族、おじさん、おばさんも含めてね。何が起きたのか。何があったのかをね。
戦争が終わってから、戦争の狂気というか、戦争の苦しみが続く人が 多かったし、心が癒えるのに時間かかるしね。
それから、広島にはね、原爆孤児っていうのがおる。原爆孤児はどうして生まれたかというとね、、、、空襲で 子供が死んだら戦争が継続できんでしょう。
だから、小学校の中学年以上は田舎の方へ子供と、先生だけ行くわけですよ、学童疎開というの。そしたら戦争終わって、 原爆で家族、自分より下の弟や妹、おじいちゃん、おばあちゃんがね、一家全滅になった人が多かったんよ。疎開先の田舎のお寺で、待っても待ってもお父ちゃんも母ちゃんが迎えに来てくれんの。もうたまらんようになって、広島に帰ってきてもね、家に帰っても家が丸焼けで、たった1人で生きていかなきゃいけないよね。小学生がたくさん死んだ。何も食べるものがなかった。で、どうやって生き延びたかいうたら悪いことをする。それしかなくて。
一応ね、数が明確じゃないんですけど、原爆孤児は、おおよそ5000人と言われてて。だけど、当時の広島市が収容できる人数は500人。10分の1しかなかった。
子供がみんな1人で生きていかなきゃいけないような状況で、悪いことするとか、人のもの盗るとか、ヤクザの手先になったりね。そうすることで生き延びるしかなかった。
多分、今の七夏ちゃんだったら 誰でも話してくれるだろうと思うかもしれないけど、当時は誰も話せなかった。今は話してくださる方もいるけど、現状は、4人に1人は話さないまま亡くなっている。だんだん年を経てね、うちの母もそうだけど、死が近づいてくるでしょう。 このまま黙って死ぬわけにはいかんなと思って話し始めた人。孫から聞かれて話を始めた人が多い。
今はいろんなことを聞かせてくださる人がおるから、こういうような冊子(ヒロシマ、顔)も作れるんだけど、だけどこれもつい最近でね。でももう平均年齢85歳半ぐらい。
みんな話せなくなるから、被爆者の人の話を直接聞く機会っていうのは、少なくなったし、今話してる人たちは当時2歳とか3歳だったりするから記憶がないよね。
それでもみんなは今聞くことができる。 戦争を経験してきた人やあるいは被爆者の人、長野にもいらっしゃるし、東京にもいらっしゃるし、長崎にもいらっしゃるでしょ。 聞いたら絶対に話してくださるからね。何か機会を作ってね。ぜひ聞いたらいい。
最初の質問の答えはこんな感じでええかな。これあげるね。持ってって。
私たちはお土産にこちらの冊子「ヒロシマ、顔」をいただきました。もちろんアントヒロシマが企画制作したもの。とてもしっかりとした作り、心揺さぶる言葉たち、美しい写真、痛切に何かを感じる、とても貴重な冊子です。サイトでもお読みいただけます。サイトもすごく素晴らしい作りになっています。ぜひ読んでみてください。
ヒロシマ、顔 公式サイト https://faces-hiroshima.com/
<七夏より質問>
戦争で1番怖いと思うことはなんですか。
渡部
人間の心を失うことだと思います。
人間。
それは、兵隊さんも人間の心を失わないと、人を殺せんよね。
殺さないと自分が殺されると思うと殺すけど、やっぱり人を殺すということ。
自分の手でね、こうやって殺したら、、、
今ね、ガザでね、たくさんイスラエルの若い兵士がたくさん人を殺している。
あの人たちも、人間の心を失わないと、あそこまでパレスナの人や子供たちを殺せんだろうと思う。
だけど、私が切ないなと思うのがね、戦争が終わった後に、殺した人はそのことで苦しむよね。
去年、2023年。8月9日の日に広島で、イスラエルとパレスチナの若い青年たちが会って、「これからのことを話す、お互いを知る」っていう会をやっとったんですよ。どっちが悪いかじゃなくて、事実としてハマスが先にやったけど、ハマスがやるような状態をイスラエルはつくって、、、、まあそれは置いといても、 そのパレスチナの青年たちにも、イスラエルの青年たちも3日間くらい一緒にいろんな話をしたの。
それから、イスラエルのマタネル君という方がね、ANT-Hiroshimaで作った絵本『サダコの祈り』を、ヘブライ語に翻訳してくれたんです。それから、少し旅をして、イスラエルへ帰った翌日、兵隊になってガザに送られてね。
今生きとるのか死んどるのかわからんの。あの優しかったマタネル君がね。自分の心を失うという状況でないといいのだけど。兵隊って、恐怖もあるでしょう。人間、恐怖にかられたらね、とんでもないことするでしょ。
だから、1番怖いと思うことは、人間の心を失うこと。
それは、殺す側も殺される側も大変な恐怖。心を失って、逆に例えば殺される側も。アウシュビッツで助かるためには、人間として、してはいけない事をする。アフリカとかにはね、たくさん少年兵が多いのよ。
少年を誘拐して兵隊にする。ポルポトも同じように少年を兵にした。中国では後衛兵に中学生を使ったでしょう。
だから、その子たちが今度は戦いが終わった後に、普通の生活に戻れんようになる。麻薬を使ったりとかね。 その少年兵にも麻薬使っとった。
絶対いけんよね。絶対許しがたいことよね。
<七夏より質問>
戦争が起こらないで平和な世界にするために、
何が大事なことだと思いますか。
渡部
よく対話、対話。対話が1番です。って言うよね。
なんで対話が行われとらんのかね。おかしいね。ほんとに答えになっとらんね。対話するためには何が大事だと思う?
これはね、七夏ちゃんに私がボールを投げ返します。
どうやったら対話ができるかねえ。会話ができると思う?
七夏
お互いのことを知ろうとか?
渡部
そうそう、どうやったらお互いのことが知れるかねえ?
七夏
相手の気持ちになってみるとか?
渡部
いいね〜
聞くことも話すことも、お互いが、安心して話ができんと、できんよね。
それから、どうも変だなと思うことがある。 どうも変だなと言っても、それぞれ違う文化があるじゃん。いろんな価値観がある。 それを尊びかなら話をせんと、自分と価値観やら、なんやらが変わっとったら、もう聞く耳持ちません。言うたらおしまいじゃけ。
七夏ちゃんが言う、お互いを知っていくってすごい大事なことなんじゃけど、
やっぱり、教えて!って、相手にって聞かないといけんね。
文化とか、あなたにとってどんなことが大事?とか。日本で当たり前がネパールでは当たり前じゃない。パキスタンでは当たり前じゃない。あるでしょう。例えば 小さなことで、ご飯食べる時に、ごみをパタパタ、パタパタ下を落とすけど、あれがある国では当たり前。後でみんなで掃除すりゃええとなる。
日本人は一個落としても、ティッシュってこうやって拾ったりするでしょ。
そういうような小さいことから、大きいことまで文化とか慣習が違ったら、違うのが当たり前じゃけん。人間って、結構小さいことで引っかかるのよね。
なんか小さい違いを許せるようになれば、大きい違いも理解できるかもしれないね。でも、それじゃあ対話にならんけえ、その大きな違いがあった時にどうやったらええかなあ?
compromiseとか英語でも言うけど、「積極的妥協」とかね。
どうやったら折り合えるか、 お互いが譲り合えるかっていうのを見つけんといけんねえ。で、そういうことを重ねていくしかないのかもしれない。
それはとっても時間がかかる。
時間がかかるときに何が大事だと思う?
またボールが七夏ちゃんに飛んでったよ〜
七夏
時間がかかるとき?うう〜ん。。。。
渡部
それはね、諦めないこと。
諦めたらおしまいよね。大抵時間がかかると諦めるじゃん。
でも、 諦めない。 あんまり急がんこと。
急いだらね、気分がイライラするけん、諦めるよね。
どうもならんことばっかりじゃけん。
でもね、、、、不思議なことがあるんよ〜。
どうもならんことがね、ちょっとだけ動く時もある。
諦めんでおって、それをずっと自分が思ってると、あら?あら?
っていうことがあってね。いろんな人に出会うとか、相手の状況が変わるとか、時間を味方にして、諦めないことだとおもいます。
<七夏より質問>
子供たちに伝えたいことはありますか。
渡部
子供たちには力があります。
長崎の高校生がよく言いますよね、「 微力だけど無力じゃない」って。
力が小ちゃいということと、無力は全然違うけん。 私たちは無力じゃないのよ。始める時は1人なんよ。でも1人じゃ物事はうまくいかん。
始める時は1人だけど、でも自分の言葉で伝えたり話したりしていくうちに、
そりゃいいね!一緒にやろうか。って言ってくれる人が現れる。
2人になると、 大体3人分ぐらいの力が出るね。そうすると少しずつ自分の周りにそうやって一緒に動いてくださる人がいて、それは考えが豊かになるけんね。そして、 国境はあんまり関係ないね。年も関係ないね。
ここで小休憩
暖かい飲み物を出してくださり、アイスいかが?お菓子食べて〜
「なんか飲みんちゃい」と、広島弁で和やかにしてくださりました。
<ひがしより質問>
いろんな方へお話伺う度に感じるのですが、戦中を生き抜いた人は本当に強い精神と命に対する意識の何か異なる次元を感じます。 戦後の人について何か大きな変化など感じますか?
渡部
やっぱり死を身近に感じてるかどうかっていうのは大きいんじゃないですか。
それはご病気で、余命宣告されたりっていう方も あるけど、それとは異なり国中が戦争っていうみんなで一斉に死と対面している時と、 病気はその人だけだど、国中が空襲があってっていう、そういうその特別な時間の中で生きた人たちっていうのは、違うのかもね。
全てを失ったところから立ち上がった体験っていうのは、人を強くするんじゃないかしら。これはね、多分ね、あんまり簡単な言葉ではなくて、個人によって、すごく違うと思うんですけど、1つの答えが李 鐘根(イ・ジョングン)さんの中にあると思いますので、見てください。この映画の企画も、インタビューも私なんです。
被爆者は日本人だけじゃなくてね、朝鮮半島の人がたくさん被爆者になってるし、それからアメリカ軍の捕虜の人もだし、それから、実は たくさんの日系アメリカ人が、被爆者なんです。
皆さんね、アメリカへお帰りになっていてね、アメリカではね、自分が被爆者だと言わないで生きてこられた方たちがいっぱいいて。日系アメリカ人をアメリカ 人だと認めてないのよね。。
だから、もし日系アメリカ人がアメリカ人だと勘定すれば、すごい数のアメリカ人が原爆の被害者なんです。そこにはいわゆる人種差別みたいなものが色々あると思います。
「はだしのゲン わたしの遺書」という本があるんですよ。中沢 啓治さんが人生の最後に書いた本。これは参考になるかもしれませんね。
私、中沢さんのインタビューで教えてもらったんですけども、 中沢さんの場合は、お父さんがね、反戦主義者で「この戦争はまちごうとる」と食事のときに家族に話しておられたそうです。また食料がないから、家族総出でみんなで麦をつくる。麦って麦踏みするじゃない、踏まれても踏まれてもまっすぐ伸びるように。これは麦の精神。こういう家の中で語られる話は、その人が生きてる時の支えになるんじゃないですかね。メソメソしよったら死んでしまうんですよ。から元気出すしかないんですよ。明るい歌を歌ったりして。でないと生きていけないんですよ。
だから、みんな元気を出したんです。歌を歌いながら歩いたんだと思います。
戦後を生き抜いた人たちと同じように、今を必死で生きている人たち、そういう人たちに触れる、 その人たちの生き様を見るということで、戦後の私たちでもいろんなことが学べるし、 私たちも食料や物があるところからスタートしても、これから先ずっとあるかどうかわからんけ。もうそういう意味では戦争中と同じですよ。
どうやって生き抜いていくかっていうのを一緒に考える時代だからね、
七夏ちゃん、これからはね、 今あるものを失うかもしれないという時代に突入するけどね、そうなっても恐れずにね。やっぱりなんとしても道を開いて生き抜こうと思ってね。
<ひがしより質問>
渡部さんのインタビュー記事の中に「人の役に立ちたい」とありました。
その言葉の凄みとシンプルさに驚きました。とてもできること(何十年も継続されている)ではない、難儀なことだと思います。アントヒロシマ(以下ANT)の活動を、仕事として捉えていますか? 人生の大きな役割?どんな風な心持ちで取り組んでいらっしゃるのでしょうか?
渡部
よくね、ボランティアの活動って言われますけどね、私にとってのANTの仕事はね、 いわゆるボランタリーでやってるボランティアの仕事ではなくて、ある種、責任とミッション。 両方持った仕事になってますね。
ANTだけではないんです。私、マルチタスクなんで、生業の仕事(弁護士事務所の事務局長)もあるんです。そのうえに介護があったり、子育てがあったり。ほんまにね、めちゃくちゃいっぱい。うふふ。
でもね、なんでそれがうまくできるかというと、いろんな人の力を借りてる。
あとね、気分を切り替えること。これが秘訣かもしれない。
もしもこれひとつだけじゃったらね、思い詰めるよね。でも全然違うことやるから、気分を変えないとできないでしょ。
今日は天気予報をみて、、洗濯しながら!とかみたいにね。
それと、やっぱりお金を計算したりとか、そういう色々なことをやるっていうことが、私の場合は気分を変えて、気持ちを変えて大変な状況のときに、 それをしのぐっていうことができたんじゃないかなと思いますね〜。
人生の大きな役割というか、こうやらなきゃいけない!というんじゃなくて、やりたいことじゃけ!(満面の笑顔で)続いとるんよ。
義務感じゃないから、ふつふつと湧いてくる。言いたいことが。伝えたいことが。
お金があって、全部あって揃ってるわけじゃない。私には、なんもないけど、これやろうっていう感じ。
なんもないけど、これやろう!みんなが、みんなでやろう!ってやっていくことですかね。何かを創造的に作ることになりますよね。本当に大変だけど、それが 実現されて、それによって多くの人たちが喜ばれる、その姿はやはり嬉しいことです。
アフガン難民とパキスタンの人たち、ネパールの人たち、何十年も一緒に活動すると、いい友達になるのよね、 いい友達だっていうのはすごいいいですよね。
やったあげたとか、やってもらったとかじゃないの。いい友達。かけがえのない友達。
お互い様だなと。私はお金もないし、そんなに力もないの。 ただ、何があるかというと、仲間と時間がある。時間をかけていくうちに、 ダメかなと思っても、いろんなことが少しずつ変わっていくと道が開けるっていうことがあるから、絶対にね。
ミッションという言葉があるんですけど、ミッションというか、私にとっては大きな表現ですけど、天が託してくれたありがたい仕事だと思ってます。
やりがいがあるよ。 いや、一緒にやろうやって言いたいぐらい。でも、自分で見つけんちゃい!でも一緒にやってもいいやと思ったら一緒にやったりね。
<ひがしより質問>
インターンのお手伝いって主にどんなことをするんですか。
渡部
大学1年生で来た時は、とにかく会ったら自己紹介をして、人の話を聞きましょうね。で、2年生ぐらいになったら、私が授業に行く際は一緒に行ってみない?と。そして3年生ぐらいになったら、 60分のうち20分任せるから、自分でパワーポイント作って授業してみんちゃい。という感じ。
インターンが1人じゃなくて2人ぐらいいたら、それぞれ違うから、お互いを見てすごい勉強する。だんだん良くなりますね。それを重ねていくと、今度はいろんな企画ができるようになります。その日のコーディネートというか 企画を練ってもらい、じゃあやろうかねって。今はインドネシアの子はだいぶ経験積んでた。 ドイツの平和村へお手伝いに行く子。世界中からいろんな子がくるよ。
何かあれば責任は私が取りますよ。やっぱり代表としてっていうことがありますかね。
<ひがしより質問>
今起こっていることを調べる、共有する、アクション等々、やらなくちゃ!と、鼻息荒くも、私は、仕事、家事、育児、、、と日常をこなすだけでも精一杯なところもあります。活動を始めたとき、現在に至るまで、恐れ、迷い、不安はありましたか?
マルチタスクですよね、私たちは。でしょ? 育児もやって、家事もやって、仕事もあるでしょ。で、自分の時間が欲しいでしょう。ほんとにそうでしょ。
ジャグリングってあるでしょ。あれだなと。
でも時々思うのは、あんまり忙しすぎたらね、心を無くす。
それでね、月に1回だけね、宮島に行くんですよ。昔から行ってるお寺があってね。宮島は私が大好きな場所で、 海があって、山があって、自然があるんよ。
もちろん、もみじ饅頭屋さんもあるけど.。すごい綺麗なんですよ。
宮島へは船で15分行くの。そうすると、すごいこう日常と違いますね。
それとね被爆樹木に会いに行くんですよ。今4年生の子供たちと一緒に樹木の勉強しています。 やっぱり人間は自然と切り離されたら、自分自身を見失うんじゃないかなと。
<ひがしより質問>
NPO法人ANT―Hiroshima非営利法人を立ち上げた経緯など踏まえ、志に対しての現実的なところ(生きてゆくために生活、金銭を稼ぐということとのバランスについて)どんな風にとらえていらっしゃるのでしょうか。
このね、生きていくための生活と金銭を稼ぐということとANTの活動、バランス大事です。これは日々考えてますね、 いつも明日はどうしよう、1か月先、1年先はどうしようで今まで来たから、 これはしょうがない、これからも引き受けてやるしかないですね。
お金が1円もなくなったらどうしようかなとは思うけど。今、授業に行くと謝金をもらうから、それは活動費。みんながね、これを売ったらいいんじゃないのなどと、言ってくれる。でも営利活動を始めたら、そっちに頭が行くから。そこにのめり込んだら、こっちのことができなくなるし。
<ひがしより質問>
NPOや NGO、その非営利団体っていうものは国から補助が下りたりするんですか?
渡部
おりないんですよ〜。ドイツのインターンの子が、そんなのおかしい!っていうのよ。ドイツはね、政府に反対するようなことをやってても、ちゃんとお金がでるんですって!日本は変えていかなきゃいけない。 NPO法人で、特に介護なんかだったら介護報酬なんかがちゃんとありますよね。国からのお金ですよね。だけど、うちはそういうことはやってないので。平和とかこういう風な活動する時にはなかなか出してもらえないの。
被爆者の写真展をやった時には、 慰霊をする事に関しては補助金が出たんです。それは初めて使いましたけど。だけど、補助金ってね、後からもらうから、先に立て替えなきゃいけないから、 よく考えて補助金を申請しないとですね。だけど、なんとかしていくしかない。
ひがし
渡部さんみたいに何十年もやられてても、それがあるんですね。
渡部
常にありますね、常に。こっちの頭は常にお金を考えてる人になりますね。
だってね、お金がなかったらできんけんね。そのお金をどうするかっていうのは常にあるけど、でもお金の顔しとったら人は楽しくないから、これは自分で考える。
<ひがしより質問>
家庭、友人、身近な場所でも争い、違い、不仲が起こってしまう、人間という生き物 私は規模は違えど、人間の心の在り方は、戦争と同じものがあるなと思うのですが 渡部さんは、そのあたりをどんな風に、感じますか?
渡部
やっぱりね、私は愛してもらった。親からたくさん愛された。
我が家は大家族だったんで、そんなにお金はなかったけど、うちの父は本だけはこうちゃる(買ってあげる)って言うて買ってくれてました。
本当に愛されて育ったと思えること、それは大きい。それはなんでかな。
人を信じることができる。
でも、この世界には愛されることがなかった人もおる。
それは寂しいけ。 愛されることがなかった人が、自分は愛されてるなと思うような機会に巡り合えたらいいなといつも思うとるんよ。
愛情って、いっぱい人にあげる。
もらおうと思ったらもらえる。あげたらもらえるけんね。
ほいじゃけん、惜しみなくなくあげたらええ。減らんけえ。 あげたらええ。
・・・・
私達が初対面なのにも関わらずお部屋に入ったところから、あたたかく歓迎をしていただいて、前から知っていた友達かのように接してくれました。そのおかげで緊張していた気持ちもほぐれて渡部さんとお話しすることができました。戦争を体験したご両親の事や、渡部さんのお気持ちを聞いて改めて戦争はあってはいけない事だと感じることができました。戦争のことだけではなく、日常の事の話もでき、「七夏ちゃんできることはなんでもやってみんちゃい」と言ってくれて、これからの人生無駄にはできないなと感じました。短い時間でしたがとてもあたたかい時間で、そんな空間を作ってくれた渡部さん、本当にありがとうございました。またいつか会えたら嬉しいです。(七夏)
戦争のこと、活動のことをお伺いに行ったつもりが、何だか私自身の日頃の生活を見直したり、愛について、子育てついて、世の中について考える時間になり、本当に本当に渡部朋子さんという人の朗らかさ、聡明さ、愛情深さをこの数時間で感じることがあり、私も豊かな人間になりたいなと、活動家としてももちろんですが、一人の女性、母、経営者、代表であること、またそれ以上に、平和を心から願い、活動されている一人の人間として、深く尊敬します。またいつかお会いできる様、日々精進したいと思いました。(ひがし)
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