祖母は今年(2024年)で99歳。19歳から55歳の定年(早期退職)まで、生まれ育った大分県で小学校の教師をしていました。80歳のとき、長年暮らしていた別府の町から、川崎市にある僕の実家へ引っ越して来ました。祖母が終戦を迎えたのは19歳。これまでも、祖母から戦争の話を時々聞いたことはありましたが、いつもあまり多くは語らず、こちらもそれ以上、あまり深く聞くことはしませんでした。当時の教育現場にいた若かりし祖母が、戦中戦後のどういう環境の中を、どんな気持ちで生きていたのか。今回は教育に少し焦点を絞って、そのあたりの話を聞いてみました。高齢のため、本人の記憶が曖昧な部分がいくつかありました。ご了承ください。
2023年8月6日(日)、祖母の自宅にて。
ーおばあちゃんの、名前と生年月日を教えて?
瀬田美代子、大正14年の、10月30日生まれです。
ー大正14年。
1925年に生まれました。小学校入学時に、満州事変が起こりましたね。満州事変勃発。小学校6年で日支事変。日本と支那の、日支事変。
ーうん。
それから、師範学校の、、、何年生だったかなぁ、、、。
ー師範学校って、どういう学校なの?
師範学校は、学校の先生になる資格を取る学校。
ーあぁ、なるほど。
その資格を取るために勉強して、師範学校に行ってた。昔は女子師範学校って言ってた。
ー女子?女子と男子って、別れてたの?
別れてた。どこの県にも、師範学校という学校が1つずつあった。
ーなんで別れてたの?
知らない。昔はね、男子と女子が別々だったの。
ー師範学校が女子と男子に別れてたの?それとも全部の学校が別れてた?
全部。小学校の時から、男女別。
ーへぇー、そうなんだ。
うん。
ー全国?
全国かどうかは知らないねぇ。都会は男女一緒だったかもしれない。
ーそれはじゃぁ、別府の場合ってこと?
いや、松岡。大分市だね。大分市って昔は言ってなかったけどね。まぁ大分市だね。
ー生まれたのは松岡だっけ?
松岡。
ーふーん、女子と男子で別れてたんだ。
勿論別れてた。男子組と女子組って。
ーそれって、何で別れてたの?
何でかって、そういう風に、男女別に教育してたの。
ー何で?
別に、、、なんて言うんかねぇ、昔から何でも別だったよ、ずっと。
ーふーん。女子と男子で教えられることは違うの?
いや、一緒。
ー一緒なの?
うん。でも体育とか違ってたかもしれないね。体育はね、男子組は高学年になったらね、いわゆる軍隊的な教練みたいなのがあったみたいね。
ー教練?
教練って言うかね、、、鉄砲。竹鉄砲を鉄砲の代わりに担いで、行進させられたりしたみたい。
ー高学年って、小学校の高学年?
そう。小学校5年生、6年生ね。あと、高等科っていうのがあったの。 当時は尋常高等小学校だから、小学校6年生と高等科2年、1つの学校で勉強してた。おばあちゃんは小学校6年生に行って、そして高等科2年制に行って、それから、師範学校に入った。
ーじゃあ、今でいう中学校っていうのは無かったの?
中学校、女学校というのがあって、小学校6年生に行って、6年生で中学校に行きたい人は受験をするわけ。女学校に行きたい人は女学校を受験するわけ。で、不合格だったら、また高等科に行く。
ーへぇ~。
高等科っていうのは、各村に無いところもあったけどね、大きい村は高等科っていうのがあったの。
ーおばあちゃんは、なんでその高等科2年に行ったの?
なぜ行ったかって言うと、6年生の時に女学校受験したの。合格したんだけれども、おばあちゃんは高等科に行って、もうその時に師範学校に行きたいって目標があったの。
ーうん。
だから、女学校に行かなかった。女学校に行っても、師範学校に行く道はあったけど。小学校6年生まで行ったら、女学校に行く人と高等科に行く人に分かれる。女学校に行く人は、ほんの1割もない。
ーふーん、女学校に行くことって難しいの?
40人がいたら、ほんとに、そうだねぇ、1人か2人。何故かって言うと、おばあちゃんが育ったところは、非常に不便なところ。
ーうん。
その女学校に通うのに、便利が悪い。
ーどういうこと?遠いってこと?
駅が遠いってこと。駅が遠くて、駅からまた汽車に乗ってって。
ー少なかったの(女学校が)?
うん。汽車の本数も少ないわけ。駅までも60分ぐらい歩かなきゃならない。
ー遠いね。
うん、遠いからね。だから、おばあちゃん、高等科に行って、師範学校の寄宿舎に入った。
ーうん。
寄宿舎に入ったら、家から通わんでいい。
ー寄宿舎っていうのは、寮みたいなもの?
うん。だから、大分の場合は、寄宿舎が校舎と並行してあった。校舎があって、渡り廊下があって、寮がずーっと並んでた。そこに、学校の先生になりたい人たちが、大分県中から集まって、寮に住んでた。みんなね。
ーうん。女学校も少なかったの?女学校ってあまりいろんなとこに無かった?
師範学校は、大分県に一つしかなかった。女子師範学校が一つ、男子師範学校が一つ。女学校っていうのはあったんだけどね、お裁縫の学校が多かった。その当時は、女性は裁縫ができないと悪いからって言ってね、洋裁とか、和裁とか、そういうところに、教育の重点を置く。
ーうん。
そういう女性を育てる。
ーへぇ~。
縫い物ね。和裁ができる、洋裁ができる。だから、理科とか社会とか、国語とか、そういうのにあまり重点を置かない。
ーへぇ~。
縫い物!
ー(笑)。それって授業でいうとどのくらいの割合なの?
教育の重点が、男子と女子は違ってたの、昔は。
ーうん。
だからおばあちゃんは、学校の先生になりたいから、 師範学校に行って、寮に入った。
ーその裁縫とさ、国語とか社会、科学とかの授業の割合って、どれがどのくらいのボリュームだったとか、そのへんはどんな感じだったの?
国語も社会もどっちも重点があったよ。
ーえ、あったの?
うん。
ーでも、その中でも授業の数は裁縫とかの方が多かった?
やっぱり女性だったからね。教育現場に出ていかなきゃならない、そういう教育をするんだからね。その時の小学校の子供たちを指導しなきゃならないから、もちろんお裁縫もあった。
ーえーっとそれは、師範学校の話ね?
師範学校の中に、洋裁も教えてくれる。和裁も教えてくれる。いろんな教科にも重点があるわけ。
ーうん。女学校での教育の重点はどうだったの?その裁縫とかにあったの?
あぁ、そうそう。女学校は女子教育、男子は男子教育。だいぶ違ってたのね、あの頃はね。
ーじゃあ、やっぱり男子は、そういう、兵隊になるための教育を受けてたの?
勿論。
ーそれっていつから受けるの?
もう、それは明治からだね。
ーあ、違う違う。子供たちは、何歳ぐらいからそういう兵隊になる教育を受けるの?
あぁ、小学校高学年からだね。それまでは、男女一緒だね。
ーうん。
5、6年生頃からかね、体育の時間がね、男子女子違ってた。
ー小学校でも別なんだよね?女子と男子って。なんか一緒のイメージだったけど、別なの?
都会はその頃でも男女一緒の学級編成だったみたい。だけど、おばあちゃんの行く学校は、男子と女子は別だった。
ーへー。建物も違うの?
いえ、1年生は1年生。男子と女子隣同士だった。
ー部屋が隣?
部屋は違うよ。教室が違う。
ー教室は違うんだ。
先生も違う。
ーで、建物は一緒?
勿論建物は一緒。校舎は一緒。一年生男子、一年生女子。多いところは、一年生男子1組2組って。そういう学級編成。
ーなるほどねぇ。それ、おばあちゃんは男子がそうやって兵隊になる訓練を受けるのを、どういう風に見てた?どう感じてた?
それが当たり前だと思ってた。別に何も感じない。それが当たり前だと。
ーあぁ。じゃぁ、おばあちゃんのさ、お父さんとお母さん、俺のひいばあちゃん、ひいじいちゃんになる人たちは、どういう感じだったの?そのへんは。
あー、当たり前。それが当たり前。義務だと思ってたね。
ーじゃあ、男子は兵隊になるっていうのが当たり前。
うん。20歳になったら徴兵検査っていうのがある。それで、「君は特別背が高いから騎兵隊だ」とか。
ーうん。
背の高い人が馬に乗るでしょ。馬に乗れるから。特別高い人が騎兵隊になる。東京の、あの宮城(皇居)を守るための、近衛兵っていうのがあった。
ーうん。
近衛兵を志願して、松岡から東京に来た人もある。
ーへぇ。その人友達?
友達じゃない。ずっと上の人。
ーそれはやっぱり、なんかこう、名誉みたいな感じなのかな?近衛兵になれたら名誉になるの?
あぁ名誉名誉。近衛兵になるっていうのは名誉。
ーやっぱりその時、天皇っていうのはさ、もう神様みたいなの?
勿論。
ーおばあちゃんにとっても?
うん。
ーそれは、 いつからそういうの意識し始めたの?
それは小学校1年に入った時から叩き込まれる。
ー(笑)そうなんだ。
うん。
ーそれ覚えてる?おばあちゃんが小学校1年生の時に、その叩き込まれたって思い出はある?
天調節って、あのね、1年の間に明治説があったの。
ーん、何説?明治説?
明治説っていうね、天皇のね、威徳を讃えるっていう意味で、明治説っていうのがあったの。それで、勉強が無いの。
ー勉強が無いってどういうこと?
勉強が無いで、みんな全部講堂に集めて、そして、明治天皇の写真。
ーうん。
写真ね。昔ね、奉安殿っていうのがあったの。各学校に。
ー奉安殿?奉安殿って何なの?
奉安殿の中にはね、天皇の写真が入ってたの。
ーあぁ、部屋?そういう部屋?
どこの学校にもあった。特別にちゃんと立派なものを立てて、そこに天皇の写真が飾ってあって、毎朝学校に行ったら、奉安殿に頭を下げる。
ー(苦笑)。
奉安殿に頭を下げる位置が決まってんの。そこまでいって、ちゃーんと頭を下げる。学校に行ったら。で、帰る時も、、、。
ーうん。
帰る時はしなかったような、、、。やっぱり前を通る時はしたかな、、、。帰る時したんかな、、、。やっぱりしたな。
ーした?
うん。
ーじゃあ、入口とかにあるの?その奉安殿って。
入口には、無かったようにある。入口にあったところもあるかもしれない。
ーあぁ、それはじゃあ、各学校、それぞれ?
学校によって違ったみたい。
ーじゃあ、それは何の写真だったの?明治天皇の写真?
うん。で11月3日は、明治説だった。そん時は、みんな紋付着て、袴履いて。
ー先生が?
先生も生徒も。
ー生徒も?
生徒も。中には袴履いてくる人もいた。もうその頃、袴なんて作らないから、無い人は履いてこない。
ーじゃあ、熱心な人だ(履いてくる人は)。
うん。おばあちゃんが1年生に入学するときに、小さい袴を作ってもらったね。
ーふーん。それは嬉しいの?その11月3日に袴を履くっていうのは、なんかやっぱりめでたいの?
うんそう。その明治説だったら、明治天皇の威徳を称えるっていうかね、 そういう意味で、みんなが士気をしていた。
ー明治天皇については、大人からどういう風に聞いてたの?
あのね、江戸幕府が続いたでしょ?そして、明治になった。だから、江戸幕府は、徳川が支配してのたね。それから徳川慶喜が政権を朝廷に返したわけ。
ーうん。
明治天皇が政(まつりごと)をするようになったの。明治からよ。明治からちょっと日本の政治が変わってきたの。
ーうん。
だから、徳川が政治してたのを、天皇が政治をするようになって、日本の国を海外に輝かせた、海外に輝き始めたっていうので、明治天皇を称えて、明治説っていうのがあったわけ。徳川慶喜が朝廷に、政治の権利を返したわけ。それを大政奉還って言うの。
ーうんうん。じゃあ、やっぱりその日本を世界に、「こんなにすごい国なんだよ」っていうのを世界に広めたっていう感じ?
うん、明治天皇がね。
ーそういう風に聞いてた?大人から。
うん。明治天皇の代には、いわゆる、外国に対して戦争があったね。明治時代に。明治27年。日清戦争。清国っていうのがあったの
。その頃中国は清国だったの。清国と日本は戦争したの。
ーうんうん。
それで勝利を収めたの。その次に日本の国が満州の方にすごく踏み込んで行ったわけ。そしたら、今度はロシアが怒ったわけ。それで日露戦争が起こった。明治37、8年に日露戦争が起こった。それからずっと戦争。戦争続きだよ。
ーうん。日清戦争を始めた理由って、大人からどういうふうに聞いてた?
中国の上の、北の、何ていうのかな、、、天津、天津とかいうとこがあったの。あの辺でなんか事件があったんだよね、、、。日本の軍隊が、作り出した事件、と聞いてるね。
ー自作自演みたいな?
うん。日本の軍隊が、何か原因を作って、清国と戦争が始まったみたい。日本の軍隊が(原因を)作ったっていうかね。
ーふーん、そんなのばっかりだね。
なんかそんなふうに聞いてるね。なんとか事件っていうのがあったの。どこか、天津か奉天かどこかで、、、。
ーそれは満州事変とは違う?
なんかね、日本がね、作り出した原因で起こった 戦争だけど、日本はそう言わなかったのね。今となっては、日本が作った原因で起きた戦争だとか言うけれどね。
ーうん。
おばあちゃんたちが育った時は、そういう教育は受けなかったね。
ーおばあちゃんはそれいつ知ったの?
違ったっていうのはね、終戦後だね。戦争中はもう、それ一点張りだからね。
ーうん。戦争後の、どの段階でそれを知ったの?
んー、覚えん。どうして知ったかは覚えてない。
ーそうか(苦笑)。おばあちゃんは、終戦の時はもう先生になってた?
なってた。終戦の時、先生になって4、5、6、、、5ヶ月、先生になって5ヶ月の時に終戦になった。
ー5ヶ月。
師範学校を卒業してね、5ヶ月経って、終戦になったの。
ーへぇ~。
卒業式無かったんだからね、もう卒業式の時は空襲で。卒業式なんか、誰も先生はいない。みんな動員に連れて行かれた。工場に。生徒を連れてね、工場に行ったの。
ーうん。
だから、学校にはごくわずか。卒業学年の私たちだけしかいなかった。
ーへぇ~。おばあちゃんが教えてたのは小学校?
うん。小学校と中学校両方ね。
ー2つやってたの?小学校と中学校、掛け持ちしてたの?
昔は小学校と中学校、免許が一緒だった。 だから、師範学校卒業すれば、小学校も中学校も免許が取れた。
ーふーん。じゃあ、その卒業式が無かったっていうのは、人がいなくて?
うん。もうみんな動員に行ってた。工場に行ってた。学校の生徒全部、工場に連れて行かれた。
ー全部?
だから、卒業生だけが学校に残ってた。高学年、いわゆる最高学年、3月に卒業するって人だけが残ってた。それで、いわゆる私は免許もらうでしょ。
ーうん。
だから、 最後の仕上げの学習。
ー最後の仕上げ(笑)?どんな仕上げをするの?
現場に出て、いわゆる指導方法っていうかね。師範学校の中に、女学校もあり、師範学校もあり、小学校も幼稚園もある。みんなあった。で、師範学校の生徒は、実習に行くわけ。先生になるために。実習するために付属小学校に行くわけ。小学校に出て、卒業してね、県から辞令をもらう。「はい、あなたは どこの学校に行ってください」って、辞令をもらう。で命令が来たら、そこの学校は行かなきゃいけない。そして、5か月。 4、5、6、7、8、、、5ヶ月目で、終戦になったの。
ーふーんそうか、なるほどねぇ。ちょっとごめんね、明治天皇の話に戻るよ。もう少し詳しく聞きたくて。
うん。
ーおばあちゃんが小学校1年生の時に、そうやって奉安殿に、、、
そう、朝行ったら、必ず奉安殿に最敬礼をする。
ーみんなやる?
みんな。みんなよ。誰もが学校に来たら。
ーうん。で、教育勅語ってあるじゃない?あれも教えられてたの?
勿論。
ー小学校1年の時に?
いや、1年生では習わない。教育勅語は小学校4年生のとき。
ー4年生。
うん。暗記させられた。「チンオモウニ~」って。
ー長いの?
勿論長いよ。
ーへぇ~。で、それをみんなで読むってこと?暗記してどうすんの?
朝、、、。学校によって色々違うけどね。
ー学校によって違う?
学校によっては違うと思うよ。おばあちゃんたちは4年生の時にね、それを暗記させられた。
ーうん。
暗記して言うの。朝学校来て、授業が始まる前に、みんなで言うの。
ーへぇ~。それ、なんか飾ってあんの?部屋に何か天皇の、、、。
いや、飾ってない。何も飾ってない。
ーへぇ~、じゃあ、みんなで読むだけ?
うん。。修身っていう教科があった。
ー修身?
小学校1年の時からあったんだよ、修身って。
ーそれはなんなの?修身っていう教科は。
修身っていう教科はね、なんか道徳的なもの。でも、何て言うかなぁ、天皇に身を捧げるっていうかねえ、そういうこと教えられる。
ーへぇ~(苦笑)、その修身っていう授業で?
修身っていう教科で。それだけじゃないけどね。
ーうん。
色々、人としての道を習うわけね。
ーうん。
それだけじゃないのよ。 色々あるのよ。
ーその色々って覚えてる?
覚えてるよ。二宮金次郎の話とかね。
ー二宮金次郎の話(笑)?どういう話?
二宮金次郎は一生懸命働いたっていうね。そういう話もある。
ー(笑)それを見習いなさいってこと?
そうそう。
ーあとは何かある?覚えてること。
あとは、伊勢の皇大神宮ね。伊勢の皇大神宮が一番先ね。中心は。
ーあぁ、あと熱田神宮とか?
勿論熱田神宮の話もだけど、まず伊勢の皇大神宮。修身には伊勢の皇大神宮だね。
ーそれはどういう風に教えられるの?
伊勢の皇大神宮は、天照大御神が日本の国を作ったんだって。私たちは、天照大御神に仕える民だっていう。
ーそれを教えられて。
うん。
ーそれはさ、おばあちゃんのお父さんとお母さんもそれを信じてた?
あぁ、一緒ね。昭和の20年まで。戦争終わるまでは一緒。
ーうん。おばあちゃんのお父さんとお母さんはさ、何年生まれ?
明治生まれ。私のお母さんは明治38年か7年だよね。お父さんは明治33年かな。私のお父さんは、軍隊に行った。
ーあぁそう?
うん。20歳でね。
ー会ったことある?俺、ひいじいちゃんに会ったことある、、、あるよね?
あんた会ったことあるよ。覚えてない?
ーいや、何となく覚えてる、、、。おばあちゃんが生まれた時、ひいじいちゃんは何歳?
26歳くらいじゃないかな、、、。
ーじゃあそれ、軍隊に行ってるとき?
いえ、軍隊は20歳で行くんじゃから。
ーあ、何年か決まってんの?(行く期間が)
あぁ、2年ぐらいね。兵役期間っていうのがあるの。2年ぐらいだった。よくはっきり覚えん、2年ぐらいだったと思う。
ーじゃあ、それで、兵役終えて。
うん、そうそう。徴兵検査があって。で、合格して。各地方に軍隊の連隊があったわけ。あの頃は、、、うちのじいちゃんはどこに入ったのかなぁ、、、。久留米かどっかに入ったのかなぁ、、、。大分にも連隊があった。大分連隊に入った。大分連隊に入ったみたいだ。大分連隊っていうのが、久留米に後からできたの。 広い練兵場っていうのがあった。おばあちゃんが学生の時にね。
ーうん。それで、その後はもう兵隊にならなかったの?ひいじいちゃん。
うん、召集令状こなかったよ。
ーへぇ~。
若い人はね、召集令状がきて、戦争に行った人多いよ。
ーうん。じゃぁ、年齢が若くなかったから、その後の戦争には行かなかったの?
そうそうそう。じいちゃんよりね、若い人たちは行った。じいちゃんより若い人たちが。
ーもう、日中戦争の時とかは、いい歳だったの?
もう40、、、いってたね。
ーふーん、そうかそうか。兵隊の時のこととかは、じいちゃんなんか話してた?
物が無くなるってことに対して、、、(言っていた)。兵舎で暮らすための、自分の私物があるでしょ。私物っていうか、配給してくれるいろんな物。 そんな物がね、無くなるんだって。
ー盗まれちゃうの?
盗まれるんだって。
ー(笑)
それからね、盗まれないようにするためにね、どうするかってね、苦心したみたい。
ーなんで、盗まれちゃうの?
失くしたりしたらね、検査がある時に、ちゃんと配給を貰ってるか調べられて、それが無いと困るんだって。調べられるんだって。なんか、そう言ってたなー。その話してたな。
ーそんだけ?(笑)ひいじいちゃんは、戦闘はしてないの?戦場には行ってないの?
あのね、召集令状が来なかったからね、じいちゃんは行かなかったけど、じいちゃんより下の人は、召集令状が来て、日支事変で行って亡くなった人がいるね。近所で。
ー近所で?
うん。
ーおばあちゃんの知ってる人もいる?
うん。知ってる人亡くなったよ。すぐ近くの人でね。
ーそれって、おばあちゃんと同世代ぐらいの人?おばあちゃんと同い年ぐらい?
いや上。
ーおばあちゃんと同い年ぐらいの人は、まわりで戦争に行ってない?
あぁ、行った行った。同級生で行った人があるよ。
ーうん。
でも、戦場には行ってないみたいね。徴兵検査が20歳だから。
ーでもほら、学徒出陣とかで。
あぁ、自分から志願した人は早く行ってる。そういう人多いよ。
ーふーん。一応、徴兵する側は、20歳からっていう規定があるの?20歳以上の子じゃないと徴兵できないっていうのがあるの?
そう。徴兵検査っていうのはあったわけ。乙種とか甲種とかね。体格のいい人は甲種、体格の悪い人は乙種とか言ってね。
ーでも二十歳未満の人でさ、結構戦争行ってる人いるでしょ?
あぁそれは志願兵。
ーそれは志願なの?
うん。自分から志願して。
ーふーん、なるほどね。もう志願しないといけないっていう空気がまわりにあった?
まあね、そういう風に、進んで申し出るって言うか、そういう雰囲気はあったね。
ーうん。
そういう雰囲気を、政府が作ってしまうからね。
ーうん。おばあちゃん自身も、そういう気持ちはあった?
そりゃあ勿論、あの当時はね、勝たなければって言われるからね。あったよ。みんな持ってたと思う。でも、女性はどうすることもできないからね。ただ、あるだけでね。気持ちはあるだけだ。
ーでも、それをどうにか、何かしようとするわけでしょ。やっぱりなんか参加して、役に立とうとするわけでしょ?
役に立ちたいと思うより、、、私なんか、自分の仕事をすればいいって。
ーおばあちゃんはそういう感じだった?
職場があったからね。
ーそうか、子供に教えるっていうことか。じゃぁおばあちゃんは子供たちにどんなことを教えてたの?
どんなことを教えるって言うか、やっぱり、小学校の教科。教科に従って、教える内容は決まってたから。
ーそれはどんなこと?
教える内容は、もうやっぱり普通。国語は国語。理科は理科。教える内容はそんなに変わってないね。
ー小学校何年生を教えてたの?
私が師範学校卒業した時は1年生。男子組。
ーへぇ~、そうなんだ。じゃあ、やっぱりなんかこう、 兵隊に育て上げる気持ちとかあったの?
うーん、まぁ1年生はね、そんなことより、教育。学習内容だね。
ーふーん。
まぁ、そんなことよりも、とにかく空襲があったから。私が卒業した年は空襲空襲。飛行機が本当に空に模様を書いたように、バーっと何十機と来て、豊後水道を北に進んでいくの。目標は北九州か、門司、下関。豊後水道を北にどんどんどんどん進んでいく。もうそれこそ図案を書いたように、飛行機がきちんと並んで、アメリカの飛行機が行くわけ。艦上攻撃機が、四国の沖まで来るわけ。艦上攻撃機を積んで。だから小さい飛行機ね。大きい飛行機じゃない。艦上攻撃機が、ずーっと編隊を組んで、綺麗に北九州の方に飛んで行く。それを国東半島の海岸端から見ていたの。
ーそれはおばあちゃんが先生になった時?
うん、先生になった時。国東半島にいたの。
ー1945年、昭和20年の春ってこと?
うん。卒業してね、師範学校を卒業して、国東半島にいた。
ーへぇ~。
飛行機が豊後水道をずーっとこう、爆撃機が、もう本当に綺麗に編隊を組んで飛んでいく。
ーうん。
それを、「あぁ今日はどこに行くんだろうか。小倉に行くんじゃろうか。下関に行くんじゃろうか。 今日は余計(沢山)行くなぁ。」とか言って見てた。
ーそこ(国東)は通り道になってたんだ。
うん。
ーいつぐらいからそういう空襲が始まった感じだった?
そうだねぇ、20年。終戦が昭和20年だね?20年のねぇ、、、8月になってから、、、。8月じゃない。もっと早い。
ーうん、だって春には、国東半島でそれを見てたんでしょ?
8月じゃない、もっと早くからだなぁ。
ー国東半島に行く前でもさ、やっぱりどこか九州地方で空襲はあった?。
あ、九州の方はね。大分もあったよ。
ーそういう空襲ってさ、いつ頃から始まったとか、覚えてる?
各県の地方都市っていうのがあるでしょ?その地方都市を、ほんと、1つ残さず、全部空襲したわけ。アメリカが。
ーうん。
九州も北海道も。日本中。各県の県庁所在地。
ーうん。
全部空襲にあったわけ。焼け野原に、本当に焼け野原に。で、おばあちゃんは、国東にいたから、大分市が燃えるのを、国東半島の方から「今晩は大分がよう燃えるなぁ」って見てたの。
ーへぇ~。お父さんお母さんは、松岡にいた?
松岡にいた。松岡は燃えなかったけどね、大分市が燃えたの。
ーうんうん。そういう空襲はさ、いつぐらいから始まった?
あのね、20年。20年のね、、、春頃かな。
ーじゃあ、九州の空襲は、ちょうどおばあちゃんが国東半島に行ってから始まったの?
うんまあね。
ーあ、ほんと。
20年の3月に卒業。卒業して、国東の学校に行ったわけ。
ーうん。
田舎だから、自分のところには落とされるっていう心配はないから、みんなもう素手でこうやって空を見てたの。
ーうんうん。
「今晩どこに行くんだろうか。小倉に行くんだろうか、八幡に行くんだろうか。いっぱい行くなぁ、飛んで行くなぁ」とか言って見てたの。
ーそれってどういう心境なの?
どういう心境、、、。あぁ(飛んで)行くなぁって。ただそれだけよ。
ーただそれだけ?
うん(笑)。
ー(笑)。でもさ、「大丈夫かなぁ」とかさ、 「いっぱい飛行機飛んで行くけど、日本の飛行機は来ないのかなぁ(戦いに)」とか、 なんかそういうことは考えないの?
考えない。
ー(笑)。
どんどん飛んで行く。「今日はどこへ飛んで行くんじゃろか。北九州か八幡じゃろかとか。焼け野原になるよなぁ」とか言って。
ー「もうやられちゃうなぁ」っていう感じなの?
うん。
ーへぇ~。
ほんと。
ー何でこう、日本の飛行機は戦わないんだろう?とか、そういうの思わなかったの?
もうそんな、日本の飛行機なんてありゃせんから。飛行機は日本の国には無いんだって、みんな知ってた。
ーあ、知ってたの?
うん。
ー何で知ってたの?
だって、出来上がらないもん。
ーえ?(笑)
みんな工場で働いてるんだから。
ーあぁそうか、その現場の状況を知ってるわけだ。そういう話が伝わってくるわけ?
そうそう。
ー「飛行機が出来ない!」って?
うん。みんな動員。女性も動員されて。
ーうん。
若い人もみんな動員されて。
ー若い人って何歳ぐらい?
あぁ、中学校を卒業したら、もうすぐね。
ー中学校って3年制?
その頃中学校はね、、、違う、、、 中学2年、3年、、、。もう学業半ば。学業半ばで工場に行ってる。みんな。
ーうん。
うんとね、小学校卒業して、5年中学に行くわけ。
ー5年?
うん。
ー長いんだね。
そう。小学校卒業してよ。
ーうん。
中学5年。だから、その中学校の生徒たちが、工場で働いてた。全部、もうほんと学業投げ捨てだよ、、、みんな。
ーじゃあ、もう学校に行かないで、工場に動員されてた。
そうそう。女性もね、学校に行かないで工場に行ってる。
ーそれ、昭和何年頃からとか覚えてる?
昭和19年からかなぁ、、、。18年。 18年頃からもう行ったでしょうねぇ。とにかくもう勉強できなかったの。
ー国東半島ではそういう勉強ができてたの?教えられてたの?
あぁ、国東半島でも、もう勉強できない。
ーみんな何やってたの?
空襲警報がなったら避難する。いつも空襲警報が鳴ってる。だから、分散教育。小学校に全員集めたら、やられちゃうから。被害が大きい。だから分散教育。学校には来ない、皆。
ーどこ行くの?
子供を集めない、学校に。部落で集まって、お宮に集まるか、お寺に集まるとか。で、そこへ学校の先生が行って。もう勉強を教えるっていうより、 見てあげるだけ。だって1年生から6年生まで、全部一緒にお寺の机に座ってるんだから。
ーふーん、1つの部屋で?
寺子屋教育っていうかね、そんなとこね。
ー小学校1年から6年まで、みんな一緒に?
うん。
ーそれを、おばあちゃんが教える側でやってた?
そうそう。
ーお寺とかで?
うん。おばあちゃんが卒業したのは、20年の3月に卒業したの。だから、4、5、6、7、8月ってね。分散教育だった。でも、4月、5月はそんなことなかったんだけどね。8月になってからね、分散教育になった。
ーふーん、8月になってから。
多分8月、、、7月だったかなぁ。8月だったと思う。日にちには自信がないけどね。
ーおばあちゃんのその勤めてたとこ(国東半島)にも、8月から空襲はあった?
国東半島はね、、、そうだねぇ、、、空襲はなかったよ。北九州に行く通り道だからね。
ーじゃあ、その飛んでく飛行機をよく見てただけ?
うんそうそう。でも空襲警報があったらやっぱり怖いから、子供は学校には集めなかった。
ー空襲警報が鳴ったら、防空壕とかに隠れるの?
そうそうそう。学校ってすぐわかるでしょ?空からね。だから学校には子供集めなかった。
ーへぇ~。だけど学校にも爆弾が落ちてくることとかはあったの?
豊後水道のね、大分の海岸端。 国東半島でないところにね、佐賀関から、、、佐賀関は精錬所があるからね。
ー精錬所?
佐賀関って有名なの(精錬所で)。大きな会社があるわけね。
ー何の会社なの?
何を作るのか、、、精練所って言ってたから、、、なんか鉱物から何か取り出すんでしょう。
ーふーん。
だから、豊後水道の方は、みんなあまり、、、(無かった)。大分市はやられたよ。焼け野原になったよ。だけど海岸端はね、爆弾が落ちなかった。大分市は焼け野原。
ーうん。
日本の地方都市を目標にしたみたいね、アメリカは。だから、日本の地方都市全滅したわけ。
ーそういう場所を見たことある?
うん。8月の夏休みに、国東から松岡に帰ったよ。その時に 大分市通った。家、何にもない。大分の駅から障害物が何にも無いから、別府湾の水が見える。
ーへぇ~。
びっくりしたね。もう何も障害物ないでしょ?だから、駅から海が見える。
ー大分駅の場所は、今と変わってる?同じ?
今のところ。建物があったら普通見えなかった。
ーだいぶあるよね、距離。
だいぶあるよ。だから、家が無くなったから、駅から海が見えた。
ー鉄道は通ってたの?
鉄道は動いてたね。
ーそこはやられなかったの?
うん。でも、ほんと1軒も無いように焼け野原になったの。よくあんなに焼き尽くしたと。
ーそれ(大分への空襲)は、国東半島から見た時にやられたの?
そうそう、燃えるのが見えた。「今晩は大分市が燃えてる」って。
ーその焼け野原を見てどう思った?
焼け野原を見てどう思ったか、、、。もう戦争に負けて通ったんだからねぇ。
ーあぁ、終戦後に通ったの?
そうそう。終戦後に、国東から帰った。
ーじゃあ、国東半島で、8月15日を迎えたの?
そうそう。
ーおばあちゃんは、なんかもう負けるっていう風に、途中から感じ始めてたりした?
いや、あんまり感じなかったね。勝つと思ってた。
ー勝つと思ってた?最後まで?
だって、そういう風に仕込まれたもん(笑)。
ー(笑)どういうふうに仕込まれたの?当時はおばあちゃん分かんないと思うけど、今はさ、そうやっておばあちゃんは「仕込まれた」っていう言葉を使うでしょ?
やっぱり勝つと思ってたね。
ーうん。今振り返ったらさ、いつから、どういう風に仕込まれてたんだなって思うの?
それはもう、、、どういう風にっていうかね、、、。「日本の国は不滅だ」って、それはもうずーっと、小学校からだね。
ー小学校から?
小学校から、そういう風にね、教育されたの。ほんとだよ、小学校から叩き込まれた。そして、やっぱり師範学校でも、そういう風に叩きこまれたね。
ーうん、どういう風に?
勝つために、身を捧げるっていうかね。とにかく天皇中心だから。
ーうん。
「天皇陛下バンザーイ」っていうのと一緒。ほんと、女性だってね、叩き込まれたよ。おばあちゃんなんか指導者になるんだからね、「あんたたちは指導者になるんだから」って、もうそれで叩き込まれたのね。
ーそれはどんな風に?
それはもう、いろんな教育、なんでもね。理科でも数学でも国語でも、なんでもだよ。
ーうん。
例えば国語なんかだったら、身を捧げるような、和歌なんかがいっぱいあるでしょう。
ーふーん、どんなのがあるの?
あんなの、、、もう忘れた(笑)。
ー(笑)。「こういう子供を育てなさい」っていうようなのは、何かあったの?
それは勿論。
ーそれはどんな?
私たちが教育されたこと、それを身をもって体験するっていうかね、再現するっていうか。自分が教育されたこと、それを身をもって再現する。
ーふーん。そうかぁ、、、。今日ここに来て、「当時の話を聞かせて」って頼んだとき、1番最初におばあちゃんは「お尻を叩かれたよ」って言ってたじゃん。それは何なの?
それはね、本当にお尻叩かれたっていう意味じゃない。違う。
ーじゃあ何だった?(笑)
男のするような仕事でもみんなさせられるわけ。だから、寮にいたけど、寝る時間とか、起きる時間とか、食事とか、食事の作法とか、そういうのは全部軍隊式だった。
ーうん。
そういう風になったの。
ーうん。
1年生に入ってから2年生。3年生までぐらいはあんまり無かったんだけど。4年生、5年生で、軍隊的になった。最後の2年間はね、軍隊式に変わったの。
ーうん。それは、高学年になると体育の授業が兵隊になるための授業になるっていう、、、。
教練っていうのがね。
ーうん、教練。
師範学校のとき、寮生活したからね。みんな全員寮生活だから、学校の生徒。寮でいろんな生活様式っていうかね、そういうのを鍛えられたわけ。
ーふーん。じゃあ、そこで1番強く教えられたことって何?思想的なものを教えてもらったの?
いろんなことだよ。自分の私物の整理とか、それから、学校の授業が終わって、余暇の過ごし方とか、そんなもの。外出するときは、ちゃんと外出届を出して、それから外出するとかね。簡単にどこでも寮から出ていかれないわけ。
ーうん。
とにかく、だんだんお米が少なくなってね。お腹が空いたねぇ。
ーふーん。
、、、。
ーおばあちゃん眠くなってきた?
いや眠くない、大丈夫。
ー今12時になった。お昼ご飯食べる?
うん、ご飯食べる。あんた昼ご飯どうする?
ーまだ聞きたいことが結構いっぱいあるから、また今度来るね。
いいよ。
後編へ続く。
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